■差別ゆえの奔放と強さ
いまや、オネエ系タレントは百花繚乱(ひゃっかりょうらん)、メディアに欠かせない存在になっている。彼らはどうして人気を博しているのか?
マツコ・デラックスとの共著『うさぎとマツコの往復書簡』の中で、作家の中村うさぎは、差別があるからこそ、オネエたちはそれを逆手に取り、「治外法権的特権」を行使できる、と分析する。たしかに、「まっとう」とは認められないがゆえに、オネエたちには自由気ままな発言が許されているふしがある。
そして、その奔放さは、今の息苦しい社会の「ガス抜き」として機能しているように見える。
とはいえ、差別構造に乗っている点において、オネエたちの戦略は危うい面がある。「しょせんオカマだから!」と言う彼らの常套句(じょうとうく)は、「差別を甘受する」というメタメッセージもそこに含んでいるからだ。しかし、そうした自虐は差別を固定化する方向ばかりではなく、それを解消する可能性も内包している。
■「日本の母」に
オネエ系タレントの先人であるピーコは、70年代半ばのデビュー当時、世間からイロモノあつかいをされたという。しかし、毒舌の中にも真理を突いた発言は徐々に大きな支持を得るようになり、90年代の後半には、糸井重里から「日本のおかあさん」と認定されるまでになった(『ピーコ伝』)。
かつてそれを象徴した山岡久乃や京塚昌子のような女優がテレビから消えていくのと対照的に、オネエたちの露出が増えていったことを考えると、彼らは、性的であり続けようとする昨今の女たちの替わりに、母性を体現しているのかもしれない。
それにしても、どうして日本の社会の中で、同性愛者や女装者は欧米ほどには露骨な反発もなく受容されてきたのか。性解放の先進国と目される米国では、97年の時点でも、人気コメディエンヌ、エレン・デジェネレスがTVネットワークでレズビアンであると告白したことが騒ぎとなった。一方、日本では50年代に、人気歌手であった丸山(美輪)明宏がゲイを自認していた。
芸能界ばかりでなく、文壇においても似たような謎がある。70年代、米国でゲイ文学が興隆する遥(はる)か以前、49年に、三島由紀夫は、『仮面の告白』を発表している。同性愛を主題にしたその小説は、まるでオネエそのものであるかのような華美で、大仰で、自嘲的な文体を持っていた。
それが文壇のど真ん中に登場し、排斥されるどころか出世作にさえなったのだ
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